勉強やFXやXMや投資の話などが好きです。普段は生活をしながらFXを楽しんでいるわけですが、あまり楽しめてないのが現実でございます。生きるとはなにかを考えFXを極めていきたいと考えております。
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掘り出した銅を精錬するため東京に1884年本所鎔銅所を設立。そこか
ら生まれる銅加工品を輸出することで海外市場を開拓していきました。そして
この銅を使った電線は明治後半、日本全体に電力配給のネットを広げていくの
に大きく貢献することとなります。更には彼は1890年には足尾銅山に水力発電所
を併設して、銅山の発掘作業の電化を進めました。
彼が作った銅山の経営会社は後に古河鉱業となり、現在は古河機械金属と改名
されています。本所鎔銅所はここと同年1884年に横浜の発明家・山田与七が設立
した山田電線製造所と合併して古河電工になっています。
さて市兵衛の晩年には思わぬ事態が待ち受けていました。
足尾銅山から出る排水が渡良瀬川流域に深刻な公害をもたらしていることが、
衆議院議員・田中正造らにより指摘され、政府は緊急に銅山側に対策を命じます。
細々とした工事の仕様が指定され、少しでも対策工事が遅れたら鉱山は営業停止
という厳しい指令を、渋沢栄一らの資金援助の元、彼は二代目となる古河潤吉
(陸奥宗光の次男で古河家の養子となった)とともにやり遂げました。結局は
この事件への対処で消耗して、市兵衛は1903年4月、71歳で亡くなっています。
また潤吉も同様にかなりの心労があったようで1905年12月、後を追うようにして
亡くなりました。なお、鉱山の経営母体を会社組織化して古河鉱業を設立したの
はこの潤吉です(副社長は後に首相になる原敬)。
ら生まれる銅加工品を輸出することで海外市場を開拓していきました。そして
この銅を使った電線は明治後半、日本全体に電力配給のネットを広げていくの
に大きく貢献することとなります。更には彼は1890年には足尾銅山に水力発電所
を併設して、銅山の発掘作業の電化を進めました。
彼が作った銅山の経営会社は後に古河鉱業となり、現在は古河機械金属と改名
されています。本所鎔銅所はここと同年1884年に横浜の発明家・山田与七が設立
した山田電線製造所と合併して古河電工になっています。
さて市兵衛の晩年には思わぬ事態が待ち受けていました。
足尾銅山から出る排水が渡良瀬川流域に深刻な公害をもたらしていることが、
衆議院議員・田中正造らにより指摘され、政府は緊急に銅山側に対策を命じます。
細々とした工事の仕様が指定され、少しでも対策工事が遅れたら鉱山は営業停止
という厳しい指令を、渋沢栄一らの資金援助の元、彼は二代目となる古河潤吉
(陸奥宗光の次男で古河家の養子となった)とともにやり遂げました。結局は
この事件への対処で消耗して、市兵衛は1903年4月、71歳で亡くなっています。
また潤吉も同様にかなりの心労があったようで1905年12月、後を追うようにして
亡くなりました。なお、鉱山の経営母体を会社組織化して古河鉱業を設立したの
はこの潤吉です(副社長は後に首相になる原敬)。
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